パチ依存症克服

パチンコ・パチスロは悪なのか?宗教と哲学で考えてみる

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あえて”パチンコ・パチスロは悪なのか?”と記事タイトルにつけましたが、”パチンコ・パチスロを悪とする事は正義なのか?”という事です。

現に依存症をきっかけに、一個人の人生が壊されたり、その家族や、周りの人も被害をこうむる事があります。それが犯罪の引き金になったり、パチンコ業界の不透明なお金の動きだったり、社会的にもネガティブな側面は大きいといえるでしょう。

特にネットなどでは、「パチンコなんてなくしてしまえばいい」という意見は多く見られますし、自身が依存症や借金で苦しんだり、その家族やパートナーが苦しむ原因となったパチンコ・パチスロを悪と考えるのは、感情論を抜きにしてもそれを正義と考える事は自然なことだと思います。

しかし、パチンコ・パチスロ業界側から考えてみると、グレーの部分も多々ありますが、一応はルールにのっとって存在しています。資本主義の中、利益を上げることが、業界側の正義です。打ち手側が依存症で苦しもうと、趣味や娯楽の範囲で楽しもうと関係ありません。

打ち手や依存症で苦しんだ人、そしてその家族やパートナーなどからすると、パチンコ・パチスロが存在する事は悪です。業界は利益を得て存在できなければ、正義ではありません。それはすなわち悪です。

それぞれの、立場や状況で悪と正義は、相反するものになりますが今回はこれを、宗教と哲学で考えてみます。

 

宗教の持つ意味

 

まず「宗教」と聞いてネガティブなイメージを持つかたもいるはずです。現に本人や家族や友人の宗教活動が長年自分自身を苦しめている原因になっている事も少なくありません。「宗教」に関しては不利益を被った側からは悪になりますし、反社会的だったり、モラルという観点で反している事があったり、政治的利用に使われたりという事があるのも事実です。また、そこに気付き抜け出そうとしても、そうする事は容易ではありません。

宗教もパチンコ・パチスロと同じく、立場の違いで正義と悪が相反します。

信仰している人にとっては、その宗教の教えや規律を守らないことは悪です。より深く信仰し、より多くの人に伝えるために、時間や財産をささげる事が徳になります。すなわちそれが正義です。

しかし、それによって不利益を被ったり苦しんだ人にとっては悪になります。その中にいれば理解はしようとはしても、その根底にはその気持ちは必ず存在してしまいます。それがよけいにその人自身を苦しめる事になるはずです。

では、宗教がこの世から無くなれば、お互いの問題は解決するのでしょうか・・・?

確かに宗教に関わる部分ではそうかもしれませんが、別の問題は生み出してしまう可能性ははらんでいます。

宗教がなぜ生まれたかを考えてみれば、その可能性に気付けそうです。

宗教が生まれた背景には、その昔、人類が農耕をはじめた一万年前にさかのぼります。その頃、数々の天と地と水の神話が生まれました。農耕にとって一番大切な天、地、水の神話が生まれるのは自然な事です。その神話が宗教の元になったといわれています。科学の無い時代に悪天候や地震、そして台風や津波などの災害があれば、それだけで命に関わります。飢えや、病気は人々の”苦しみ”=”悪”でした。その苦しみを避けるためにはその答えが必要です。自然を大事にする事や、ずるい考えを持たずに協力し合う事、邪な気持ちを持たずに生きる事、それが教義であり、その答えが神でした。これが宗教の始まりです。

人はどんな時でも、苦しみの最中にある時、答えを求めます。宗教は、神話や、教義、そして神という存在で人々に答えを与えてきました。

それが今現在でも脈々と、国や文化や時代にあわせ受け継がれています。

答えの無い苦しみから、宗教は答えを導き出し、生き抜くための希望として存在しています。

これは、私の考えですが、宗教に対していいイメージをもてなかったり、宗教に携わっていて何かが違うと感じ、そこから抜け出さなくてはと思うのは、自分の出す答えは神ではなく、自分自身にあると気付いたからです。

宗教に携わると、生きる指針や答えはその宗教にある教義や神が導いてくれます。逆を言うとそれにそむく事は正義ではありません。すなわち悪です。

しかし生きる指針や答えは、すぐに答えが無くても、良い事も悪い事も全て自分を取り巻く事や自分自身の中にある事に気付き、考え抜いて行動し、答えを出さなくてはいけないと自分の中になにかが生まれた時に、その人にとってそれが正義になるのです。

そして、考え抜き答えを導き出すのが「哲学」になります。

生きる術を宗教に頼っている人にとっては宗教は必要なものです。その人から宗教を奪ってしまう事は、命を奪う事と同義といっても過言ではないでしょう。

生きる術を神や教義で思考停止せず、考えぬくことを決意した時、それは新たなる正義をその人の中に生み出したことになります。そこで苦しみの中、前へ進もうとする事は素晴らしい事だと私は思います。

 

 

哲学の役割

 

哲学が生まれたのは、今から約2,600年前のギリシャにさかのぼります。当時ギリシャは様々な民族が行き交っていました。そうすると様々な宗教が入ってきます。異なる宗教には異なる神や神話や教義があります。そのことで人々の間には争いも度々起こっていました。そのような社会背景の中、最初の哲学者と言われるタレスという男がこう考えました。「宗教は人種や文化によってあまりに違いがある。それぞれの宗教観の違いで争いがおきているけど、神とか神話って確かめる事できない・・・。争いを起こさないためには神話とか、確かめられないものではなく、目に見えるもので考え示さなくては」そして目を見開き考えます。「生きるための根本はなんだろう・・・?」エーゲ海、イオニア海、地中海と四方が海に囲まれているギリシャである考えにたどり着きます。「生きるために必要不可欠なものは水だ。世界は広大な海に覆われている。ということは万物は、根源において全ては水でできているはずだ!」これが哲学の始まりです。

そしてタレスは神ではなく「水」というキーワードでみんなに確かめられる原理としてその説を示しました。

そして、哲学が宗教と対照的なところは、一つの説が生まれてもさらに、時代背景、社会的価値観などを元に常に変化していくところです。実際、アナクシマンドロスという哲学者は「水では答えが不十分である。根源で言うならば無限な物”と言うべきだ!」といってタレス説を覆したり、弟子のアナクシメネスは「無限な物というのを示さなければいけない、それは空気だ」といって、師匠とは違う説を論じたりしました。

ある種、哲学はこのように先人の説をとことん批判したり進化させてきました。先人のすぐれた思想を受け継ぎながらも、足りないところは徹底的に批判する。そして、思考をもっと先へと展開していく。それが哲学の精神です。

このように、哲学は、目に見えるものや内に秘めるものを受け止め、答えがすぐにでなくても、可能性を追い、確かめて、とことん追求する。これが哲学という学問です。

哲学を語る上で、フィリッパ・フットという倫理学分野で著名な哲学者が提唱した「トロッコ問題」という思考実験があります。紹介しますので読んでいる方も一緒に考えて見て下さい。

あなたは、線路の切り替えスイッチのそばにいます。あなたの右方向から石をたくさん積んだトロッコが猛スピードで暴走しています。とうてい今から止めることはできません。ただ、線路の切り替えを行えば進行方向を変えることができます。

線路の先には5人の作業員がいます。5人ともトロッコにはまったく気づいておらず、おそらく避けることはできないでしょう。このままではトロッコが突っ込み、5人は死んでしまいます。

あなたは、切り替えスイッチの存在に気がつき、これを切り替えて5人を助けようと思い立ちます。あなたは切り替えスイッチに近づき、勢いよくスイッチに手を伸ばします。

しかし何ということでしょう。あなたは一瞬、切り替える先の線路のほうに目をやり、様子を確認しました。すると、視線の先には1人の作業員がいるではありませんか。スイッチを切り替えれば、この1人の作業員が死んでしまいます。

あなたはこの6人と面識はなく、6人とも何の罪もない人です。あなたもたまたまこの現場に居合わせてしまっただけで、そこにスイッチがなければただの傍観者の1人です。

実際には「5人もいれば誰か気づくだろう」とか、「大声を出して危機を知らせる」とか、いろいろな方法を考えてしまうところですが、ここではスイッチを切り替えること以外あなたにできることはなく、作業員はトロッコの暴走に気づいていない状態とします。

あなたはスイッチを切り替えますか?

それともそのままにしますか?

 

この問題には正解はありません。スイッチを切り替えるか、そのままにするかは、その人の価値観、倫理感、人生観など様々な要素で答えは違うと思います。ここでは答えが出ない方もいるでしょう。答えを出した方は「5人が命を落とすことを考えれば、1人の方が・・・」と、命の重さを命の数で導き出したかもしれませんし、「元々、5人はトロッコの犠牲になるという運命だったので何もしない」というふうに運命論で考えることもできます。このような答えがすぐに出ないことにも、哲学は時代や社会など目に見えるものを背景に追及し続けるのです。

そしてそこにある問題を、人々に示し、考える事を誰にもわかるように提唱するという役目を担っています。

 

 

まとめ-では何が正義で何が悪か

 

ここまでを、踏まえて考えてみます。パチンコ・パチスロは悪でしょうか?

確かに、これを読んでいるほとんどの方にとっては、正義ではありません。パチンコ・パチスロさえなければ、苦しまずに済んだと思います。

あえてパチンコ・パチスロ業界側にたてば、業界はルールにのっとり営業しているだけです。そして得た利益がその人の生活の基盤を作っています。それはすなわち正義です。しかし、それらのほとんどは、多くの犠牲から成り立っています。多くの人の人生を、またその周りのひとの人生を壊してまで、利益を上げるのは正義でしょうか?

これを読んでいるあなたは苦しんできたはずです。もしくは今現在も、苦しんでいるでしょう。

考える力も全て奪われ、立ち上がる気力もない時、そこに救いの手を差し伸べてくれる、神の存在を否定することはできません。ある状況下においては必要です。

発達した現代において、科学の暴走を止めることができるのは、真っ当な宗教観だけだというのもある種、否定できない部分があります。

今回は、宗教と哲学とはこういうもの。というのを簡単に記し、私の意見は出来るだけ書かず委ねる形にしました。

今回の記事で、改めてパチンコ・パチスロ依存症のことを捉えたり、より良い人生のための何かを考えるきっかけになってくれればなと思います。

 

 

 

 

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